昭和46年08月17日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 結局金光大神の言う事にそむかぬよう、よく守って信心せよと言うところが一番大切なところだと思うですね。そこんところの信心が出来ておりませんと、まさかの時には金光大神も出てこない。金光大神の言う事にそむかぬように、よく守って信心する。確かにこのところは皆さんもよくわかられる。此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになったというところは分ります。
 金光大神御出現によって、天地金乃神様のおかげを頂かれるようになった。しかも氏子からも神からも、双方の恩人といわれる程しに、金光大神は御信任を受けられた いわゆる天地金乃神に対する実意丁寧の限りを尽くされた。決して楽な事とかよい事とかというような事の中から、天地金乃神を感知されたというでしょうかね、発見されたというでしょうか。只受けられたというのではなくて、御自身の家でも七墓築く程しの、様々の事柄の中から天地金乃神様のおかげを受けられるようになられた。
 知らずに向けば眼を取る。知って向けば命を取るという程の金神様、いわゆる金神様とばっかり思うて一生懸命お縋りになった。けれども命を取ったり、眼をとったりされる程しのあらたかな力を持ってござる金神様の事であるから、人間が実意をもって真心をもって接していくなら、又、命を下さる事も出来るだろう、眼も下さる事の出来る程しの神様に違いないと悟られたのですね。そこで難儀な事が起こったり、困ったりする事が起きるのはこれはどこまでも、人間の生き方が間違ってる。
 思い方が間違っておる。いわゆる、見当違いの思い方をしておる事をわかられて、ひたすら実意の限りを尽くして、金神様へ向かわれた。どうぞ私はあなたをそのように思いますと、困った事、難儀な事が起こってきます事は、私共氏子の不行き届き、御粗末、御無礼がこのような事になって来るのでございますから、どうぞ本当な事を分っらして下され、お向きを変えて下され、お向きを変えて下されという、姿勢をもって金神様に向かわれた。ここのところの信心をする者が、今までかってなかった。
 金神様といえば、いわゆる金神封じをして、神様の働きを遮断するような、まじない(呪い)的な事をしてまでも、金神様から遠ざかり逃れようと、当時の人は、今でもやはりやりますがね。あちらは突金神だから、あっちを向いてはいかんとか申しますでしょう。そして、そこに呪い的な事を致します。そこんところに私は、金光大神の開眼というかね、あったと思うのですね。命を下さる事もできる。眼を下さる事が出来る程しの、神様だとわかられた。
 命を取るぞ、眼を取るぞといわれるなら、それを下さる程しの働きも出来る、実際は天地金乃神様と致しましては、氏子が可愛いと、氏子にどうぞ、おかげを頂いてくれよと、そんな呪いとか、そういう呪い的なことでいわゆる先日からの御理解を頂きますとです、神を恐れるようにする、それじゃおかげになりませんと、神てきの人間なんておろうはずはありませんけど、その人間氏子が自分自身のお粗末、御無礼を悟らして貰うて、本当な事がわかったら。
 真実一路、そこんところを求めて行くという、いわばそのところにです、叩いてでもわからせよう、言うて聞かせて分らんなら叩いてでもわからせよう、そういう考え方、そういう思い違いと言う事を改めさせようとする事に天地金乃神様も非常にまわり遠く、この辺のところを金光大神の上に表れとられます。すぐこうだとおっしゃっておられない、そこんところが素晴らしいです。
 昨日は若先生の結婚式も段々近づいて参りましたから、委員会が出来る前の委員会の形、企画の方達と総代さん方と交えての、どういうふうにやったらよいかといういろんな協議がありました。その協議が今終わってしまってから、一寸かたらして頂いたのですけども、仲々一つの事がなされていく事の為には、随分皆んなの奉仕がいるなと思いました。仲々どうしてどうしてそしてならば、こうしょうと言う訳にはいけん。まだこれから、これがどう言う風に変わっていくか分らんと言う所で昨日は終わった。
 その事を昨日、神様に御礼申さして頂いとりましたらね、丁度田舎の田園風景ですね、田園風景をずうっと御心眼に頂いて、その大きな家の溝を隔てて道路がある、それをこちらの方から歩いて行っておる。だから溝がなからなければ、その家にすっと入って行けれるのですけど、水は溜まってないけど、一寸溝がありますから、遠廻りだけれども、先の方には家につながってる橋が架かってる溝に。だからその橋を渡る為には、遠廻りだけれども、矢張りここの所から進んでいかねばいけないというお知らせを頂いた。
 ははぁ成程、皆が言っておったように、これでよいと言う事ではない。これで済んだとは思いませんのです。いわゆるよりよいおかげ、本当に神様に喜んで頂けれる。親先生に喜んで頂けれる。いわば結婚式にしたい所に、その願いがかけられてある。願いの焦点はそこである。だからこうしていろいろ、A、B、C、といろいろ幾段階にわけて、あげんしましょう、こげんしましょうと出来とった。それを又検討してまあ一つの案に決めた。やや、決まったようであるけれども、これですんだとは思いません。
 もっともっとよい方法があるならば、もっとよい方法をこれから取らせて頂いて、これから準備委員会でも出来たら、又それで検討していこうと言う様に、まあ私はそれを頂きまして、確かに物事というものはね、もうまさかの時には、ぽっとですけど、そのまさかの時に金光大神が唱えられる。まさかの時にはこげな神ながらのおかげが受けられるという、おかげを受ける前にです、ここのところがなされなければならないと、全部の信心が、それはもういきなり、家に行きさえすればよかならばです。
 こちらから水が溜まっとるなら、その水を乗り越えてでもよいのだけれども、それは無茶というもの、金光大神はそこのところを大事にされた。もう本当に金神様、金神様と拝みよんなさるとじゃけん、俺は金神じゃないぞ、早う、天地金乃神と言いなさってもよかりそうなもの、しかもそれは、金光大神の御信心のお進みになるに従って、変わってきたんです。この辺が金光教の独壇場というか、もう、絶対間違いない、素晴らしいというのはここですよ。
 あらゆる宗派なんかを見てもですよ、天の啓示を受けたとか、はじめから何の命(みこと)がかえって指図したとかというならよいですけど、本当に人間らしいです、生き生きとした生々しい(なまなましい)御生活を辿られながら、そこから本当の人間の生き方、行き道というのを辿られながら、あぁこれよりも、これの方が本当だこういう思い方も本当と思いよったけれども、この思い方も神様にヒントを頂いてみると、この思い方は間違っておったと。
 氏子の家屋敷、神様のお屋敷のまわりであろうが、お寺さんの地所であろうがみんな天地金乃神の地所とこうおっしゃる。例えば、今まではそうではない、自分の地所と思うておる、あそこは何々お寺の所有物と思うておった。ここのお宮さんはここのお宮さんのいわばものだと思うておったけれども、皆神の地所とこうおっしゃる。大変な思い違いを、根本的に悟られた 御理解三節のそこんところなんかね。
 ここが一番大事なところですよね。見当違い人間の見当違いな生き方そのものが、前々のめぐりで難を受けおるというのですからここんところがなかったら、めぐりつくらんですむ程しの素晴らしい事。だから見当違いの思い方、これが見当違いの思い方をすぐさまぽっと教えて下さるわけにもいかんし、金光大神もです、段々御信心の徳がお進みになられた、いうならあの御神格である。
 金子(こんし)大明神とか、金光大権現とかいうように、御神格がお進みになるに従って、大変まわりくどいようであるけれども、直接溝を渡って行くと、言う様な事をなされずに、はやり橋のあるところまで渡って、そこへ行かれるという程しの堅実な生き方、そこに金光教の信心の、素晴らしさがあると思うですね 間違いがない、天地金乃神様の御現れ方もです。
 教祖金光大神の信心の進まれる事に従って変わってお出でられた。どうぞ、お向きを変えられて下され、お向きを変えてくだされ、それも、次第々にお向きを変えられていよいよ向きを変えられた時には、それこそ慈顔溢れるばかりの親神様である事がわかられた。まあ、その時の神様の御喜びといえば、もう大変な事じゃったろうと思うですね。初めて自分の意中を明かす事の出来る人が現れたというのですから、成程金光大神あって神は世に出たと仰るのが分りますね。
 これからは金光大神のいう事にそむかぬようにしてさえ行けば、人間が幸せになっていけるぞ、幸福になって行けるぞという事になってきた。なるほど恩人とおっしゃったはずです。だからおかげを受けたものは金光大神のおかげである、又、おかげを渡す事の出来る神もまた、金光大神あって、おかげが受けられるようになったのぞと教えられる意味がわかるですね。
 昨日私は、今月号のおかげの泉を原稿が出来ておりましたので、いっぺん目を通してくれといから、目を通させて頂いた。私がお話をする時にいう、まあ合楽言葉ですがね、ろくそなかという言葉を使います。それがろくそなか間は絶対おかげを受けられんよと、ろくそなか事じゃ出来ん。ところがこの言葉はどこにも通用しないわけですね。よその人達はわからん。どういう意味かわからん。ところが仲々ね、ろくそうな事をいう私がろくそうなという事は、非常に意味が深いのです。
 それがこれをわかりやすくする為に、日吉さんでしょうか、高橋さんでしょうかそれに「かっこ」をして、そのろくそなかという意味の事が誰にでもわかるように書いてある。それが、ふしだらなとかいてある。あればっかりはふしだらな、ところがね、実を言うたらろくそなかと言う事は、ふしだらなと言う事ではない、言葉の持つそれは大変なものですね。私はここのところで思いました。何をもってきても、ろくそなかという言葉にぴたっと合う言葉はない。
 だからろくそなかという言葉は本当の日本語にせにゃいけんぞと私がという程しに難しい。そこで私は、ふしだらなとは一寸違うからと思わして頂いたら神様から、お粗末と頂いた。神様、人間の事ですからどこに、お粗末御無礼があるかわかりませんという事がある。この久留米の方達は、気の毒かと言いますね。ろくそうなかと言う事、だからそれでもわからん。気の毒でもなければ、ふしだらでもない。
 私が言うそげなろくそうな事ではおかげ頂かれんという、そのろくそうなかとは、そういうお粗末な事では、おかげにならんぞと言う事なのである。金光大神の教えられた事を、その様なお粗末な受け方では、おかげにならんぞと言う事なのである。すると金光教的なろくそうなかと言う事になります。お粗末とはしかも、お粗末な事は御無礼である。例えばろくそうなか人がありますよね。
 それはもうきちっと几帳面に、もうそれこそ畳の上にはゴミ一筋あっても許されない、廊下はいつもキラキラ光っとらにゃ出来ん。床の間にはきちっと、いつも軸がかかって、生け花が生き生きといけてあらにゃ出来ん。もう炊事場なんかに行きますとそれこそキラキラするぎち綺麗に片づけてある、磨き上げてある、だからこれはろくそうなかとではなくて、反対に実に律儀なと言う事になりますけれども、ならそれの反対じゃけんとおかげ頂くかというと、それじゃ受けられんでしょうが。
 正確なとか、律儀なとかそういう事でない事がわかる。ろくそうなかちゃおかげは受けられん。なら、ろくそうでない反対の事でおかげ受けられるかというと、そうじゃないからこれはやはり、私がいうろくそうなかという内容の中には、お粗末という事の内容である。いうなら、お粗末御無礼の考え違い、思い違い、それで神様に如何に接したところでおかげは受けられんばいと言うことになるのです。
 そげな事じゃ、だから場合では、ろうそうなかってもですね、形の上にはろくそうなかっても、心が神様に対して御粗末御無礼でなければ、おかげが受けられる事がわかります。だから生まれつきに几帳面とかね、綺麗好きとかいうのじゃない、そんなら几帳面な人やら、綺麗好きの人はどんどんおかげ受けにゃいけんもんね。私はここんところ改めてわからせて頂いたような気がするのです。
 今日は。教祖様が、天地金乃神様として仰がれた頂かれるところまでには、随分の廻り道をなさった。その廻り道をなさる内に、これですんだとは思いません。人間生身をもっておる人間氏子の事でございますから、どこにお粗末御無礼があるやらわかりませんという頂き方、そういう姿勢なのです。そこに教祖金光大神の生き方も、思い方も段々に変わっておいでられた。
 変わっておいでられるに従って、信心が進まれた。御神格も進まれた。そしてそういう難儀な事に出合っても、それを金神のせいとせず、人間氏子の御粗末御無礼が、このような形になったんだとして詫びて詫びて詫びぬかれたその姿勢に、天地金乃神様もほとほと感心された。私は本当にそこに天地金乃神と生神金光大神とまで讃えられなさったその時のその心のふれあいと言う事を思うたらね、もう本当に感動しますね。神様がどのうような感動をなさったかと言う事。
 そして私共人間氏子の上に、もう此方がおられたので、おかげが受けられるようになったのぞ、お前達の恩人ぞ、又神の方からも、又、恩人ぞとまでおおせられるようになってきた。成程、まさかの時、金光様といえたらおかげが受けられる事がわかります。ところが只今、私が申しましたような内容のところが、日頃の信心の中にお粗末御無礼がないように、お粗末御無礼があってはならぬと改まりに改まって。金光大神の御教えを頂いていくという生活態度というものが変えられない限りです。
 まさかの時だけ金光様では一寸いけんのじゃなかろうかと私は思う。例えば金が足らんなら、金が足らん時でも、いつもあの人のところからよくして貰うから、まさかの時には一寸一万円貸して下さいと走りこみにいけれるところをもっておる事は素晴らしい。というてそこに日頃御無礼しとったんじゃ敷居が高うして行かれんでしょうが。やはりいつも大事にして貰う人なら、そういう無理がいえる家にはちゃんと、常日頃からそこそこの交誼というかねお付き合いと言う事の上にも。
 お粗末のないようにお付き合いをしておって、初めてまさかの時にすはません、一寸、一万円貸して下さいと言う事がいうて行けれるのだ。日頃お粗末御無礼しとって、一寸、一万円貸して下さいというてもあったっちゃ、日頃御無礼ばかりしとってからと、貸すにしてもそう言う事になって来る訳ですね。だからここんところが一番大事だと言う事。金光大神のいう事にそむかぬように、よく守って信心せよというのが、大事な所。そこまでに至たらして頂く過程というかね、そういう所を皆様に聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。